諦めの果てに

11月4日(金)は5名の参加者で分かち合いを行いました。今回のお題は「諦める」です。

 

それぞれの近況報告の後、病気になって諦めたこと、諦めたときの気持ちについて、参加者のこれまでの人生とともに分かち合われました。

 

才能があるにもかかわらず、これまで順風満帆に歩んできていた道を、病気のために諦めなくてはならなかったという無念さ、能力があるにもかかわらず、病気のために無理ができないという不全感。人生の要所要所で体験した悲しみや口惜しさが分かち合われました。

 

仏教では「諦める」とは、「明らかに見る」ということを意味する単語なのだそうです。また、漢和辞典で「諦」という字を引くと「いろいろな観察をまとめて真相をはっきりさせる」「真実、真理、悟りを意味する言葉」と説明されています。 つまり、これら「諦める」の語源に照らし合わせると「諦める」とは必ずしもマイナスな意味合いを持つ言葉でははいことがわかります。

 

確かにわたしたちは、病気になったことで、それまで普通にできていた家事や仕事、やりがいを見出していた活動を諦めることを余儀なくされてきました。それはほんとうに無念で「諦めきれない」と叫びたくなるような体験ばかりです。

 

それでも今、わたしたちは諦めながらも確かにこうして日々生かされて生きている。そして、確かに可能性は狭められてしまったけれども今日、今、ここで確かに暮らしを営んでいる。あの時泣く泣く諦めた体験が今のわたしを作っているのだ、案外わたしの人生って幸せだったのかもしれない。そんなふうに思える日が来ることを祈りつつ、信じつつ、日々一日一日を一歩一歩前進していくしかないのだと思わされた分かち合いでした。   

 

パウラ