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分かり合いたい

 

6月のマ・カタリーナには15人が集まりました。時計回りに自己紹介が終わったあとは、二つのグループに分かれました。このところ人数が十人を超えてきていますが、なるべく話しやすいように小さいグループで分かち合いをしていきたいと考えています。理想的には5,6人というところでしょうか。新しく参加された方は四名おられました。当然最初は少し緊張しますけれど、小さいグループに別れたあとは、結構打ち解けて発言されていたような気がいたします。

 

今月のテーマは「分かってもらえないこと」。鬱は見た目では分かりにくいものです。ですので当然、参加者は皆、人前での自分と、一人でいるときの自分とのギャップを感じています。でもそれは他人には見えないので、その苦しさが分かってもらえない。そして孤独を感じて余計に苦しくなります。

 

または、自分の内面だけの世界に限っても、ギャップに苦しむことがあり、その苦しみが他人にはなかなか分かってもらえないことがあります。一方で、自分は自信があり、肯定的であり、有能であるべきなのに、他方で自信がなく、否定的で、不能感にさいなまされる自分がいます。この二つの自分に引き裂かれるような思いを抱えていることがあるのです。でもこれらは全部、他人には分かってもらえません。そんな心の深いところでの苦しみを語る仲間の姿に、心を動かされました。「あぁ、この人の語っている苦しみは、私の苦しみだ」とさえ感じました。

 

精神科の医者からさえ、(または医者だからこそ)、分かってもらえないことも少なくありません。レッテルを貼られて本当の気持ちを聞いてもらえなかったり、自分で説明すればするほど「そこまで説明できるあなたはそんなに悪い状態ではないね」と言われたりします。だから「なったと人にしか分からない」という他人との共有に対する絶望と、また逆に、当事者同士の共有に対する(過度の?)期待を抱きます。

 

そして「一体どのようにして共感は可能になるのか」と思わされてしまいます。当然、鬱の当事者だからこそ分かり合えることはとてもたくさんあります。「わたしもおなじ」「そういうことよくあるよね」「あぁー分かる分かる」。そうして「一人じゃない」と肯定されて、元気をもらいます。

 

でも共感の根本は「あなたをもっと分かりたい」という気持ちなのかな、と思いました。鬱の当事者と言っても、原因はさまざまですし、同じ病名でも人が変われば体験は変わる話です。当事者だからといって、そのまま共感できないこともあります。ただ、いろんな言葉をかわして自分を説明しようとされている方の苦しみや希望に耳を傾けて想像するとき、初めて共感の可能性が開けるような気がします。そしてどんなに「分かってもらえない」ギャップに苦しんでいても、そのギャップを分かろうとしている仲間がここにいます。これはとても大きな慰めになり、励ましになるのです。今回は、完全に一人一人を分かることは不可能ですが「分かってもらえないしんどさ」自体は分かり合えたと思います。

 

「わたしの辛さを分かってほしい」と「あなたの辛さをもっと知りたい」。この二つの心の上にマ・カタリーナの分かち合いは成り立っています。とても意味深い、人と人が深いところで対話する素晴らしい場所です。

 

あなたも来て「まぁ、語りぃな」。